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フランス女性と同棲中

ナンパしたフランス人と同棲する高卒ニートの整理と極論

コミュ力あります!と自称する人が気持ち悪い理由

コミュニケーション 日本と世界 言葉

最近の日本では、コミュニケーション能力(以下、コミュ力)が重要だと言われている。
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それに伴ってかどうかは知らないが、自称として「自分はコミュ障です、ひとと話すのが苦手です」という人や、「自分はコミュ力あります、誰とでも話せます」という人がいる。

「自分はコミュ障なんで」

前者の「自分はコミュ障なんで」には、幾つかの意味合いの可能性がある。
僕が解釈する時には、次のどれかだろうと思って脳内翻訳している。

翻訳1:自分なんて大したことないですよ
謙虚を美徳とする日本の文化的価値観を反映した「謙遜」の場合もあれば、

翻訳2:あんま期待しないでくださいね
予め相手の期待値を下げておく「防衛的牽制」の場合もあれば、

翻訳3:会話とか好きじゃないんで、放っておいてください
対人行動にコストを割けない・割きたくない姿勢を示す「攻撃的牽制」の場合もあれば、

翻訳4:会話とか得意じゃないんで、そちらから話ふったりしてもらえると助かります
弱味を見せて関係値を上げつつフォローを期待する「依頼的自己開示」の場合もあれば、

上記の幾つかの目的や意味が複合された場合も多々あるだろうと思う。
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もちろん、会話中にいちいち「これは牽制だぞ!」のように考えているわけではなくて、なんとなく「この人の場合はどういう意味で言っているのかな」というのを雰囲気でぼんやり感じながら呑気に会話しているわけではあるが、僕は別の文脈から「自分はコミュ障です」という自称が広まることは悪くないと考えている。
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「自分はコミュ力あるんで」

その一方で、後者の「自分はコミュ力あるんで」にも幾つかの意味合いの可能性がある。
この発言をどう捉えているかについて、面白い対比があると僕は感じている。

そもそも謙虚を美徳とする価値観の支配率が高い日本において、就職活動などで自己アピールを迫られる状況を除けば、「コミュ力あります」とアピールをする自称はリスキーだ。
日本では相手の状況や価値観を慮りつつ合わせることを「空気を読む」と称し、この受信的コミュニケーションスキルを重視するからだ。
つまり、「コミュ力あります」という自己アピールは、謙虚を美徳とする日本的価値観を読めていない発言として受け取られ、それは受信的コミュニケーションスキルの低さを示すものとして認識される可能性がある。
「こいつコミュニケーション能力あるとかアピってて草生えるw それ自分から言うことじゃないし、そのことが分かってない時点でコミュ力ないわー。ジョークならまだしも、本気で言ってるとかマジ気持ち悪い」
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これが、コミュ力ありますという自称が気持ち悪さを抱かせる理由だと思うのだけれど、では「コミュ力あるんで、いろんな人と話せます」と自称する人はいったい何を考えてそのように発言するのか。

これは僕の想像なのだけれど、海外留学をして帰国した人がこう考えているとする。
「日本では自分から意見を言わないし議論もしない、お互いに空気を読んでいれば済む。でも海外では、相手は自分のことを何も知らない。そこで自分から発言することの大切さを学んだ。自分からアピールして発言することで、チャンスが生まれる。そうして、自分とはバックグラウンドが違う色んな人と話すことができるようになった。以前と比べて(普通の日本人と比べて)自分はコミュニケーション能力が高くなった」
こういう人が、帰国後に「自分コミュ力あるんで」と自称したとすれば、確かにそう言いたいのも分かるなあと僕は思う。
お互いに価値観が違うだろうことを前提として、自身の特性や希望を伝える発信的コミュニケーションスキルを重視するなら、この発言には何もおかしなことはないからだ。
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受信主義と発信主義

そういうわけで、僕は次のように考えている。
コミュニケーションには受信的スキルと発信的スキルがあり、どちらを重視するかによって受信主義と発信主義の文化的スタイルがある。それぞれに優劣はないが、目的や状況によって重視されるものが違う。大切なのは、その両者があると知っておくことと(知識)、目的や状況を判断すること(運用)だ。
例えば、日本は受信主義が強めの国だけれど、そうは言っても例えば大阪では発信主義が強くなっていて、とはいえ平均的な大阪人よりは薄いとはいえ日本の平均に比べれば僕自身も発信主義寄りの人間である、とか。
グローバル化によって日本においても発信主義の重要性が増しているため、「読解」という受信系スキルの習得が中心だった義務教育の国語が、発信系スキルの習得を目指すように変わってきている、とか。

受信主義ー発信主義という軸を頭の中に一つ持っておいて、地域や時代に応じてメインポジションが変わっているのを眺めながら、あるべき姿を考えるのは楽しいと思う。

ちなみに

上記も含めてコミュニケーションには色んな種類とスタイルがあるのだし難しいけど面白いよね、と思っている人は、「自分コミュ力あります」とは言わずに、「自分は人と話すのが好きなんですよ」「いろんな人の話を聞くのが好きなんです」のように自称していると思う。
こういう自称する人は、お話がうまくて嘘をついて人を騙すタイプの人も混じっている気がする。あるいは、コミュ障を自称する人の中にも、嘘をついて人を騙すタイプの人が混じっている。
そういう意味では、無邪気に「コミュ力あります!」と言ってしまう人は、嘘つきの可能性は低いのではないかと思う。

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