彼氏は日本人。彼女はフランス人。

日本人とフランス人の国際カップルの記録

「中出し」の違和感

中出しに対する違和感を書きます。

違和感の正体

日本語には「中出し」という単語があって、「中に出す」という一連の動作を名詞化したものとして使われています。

僕が最初にこの言葉を見たときは、けっこうな違和感がありました。

だって、どんな空間と物体を想定した場合であれ、「中に」という言葉に接続される言葉としては「入る」か「入れる」という動詞が通常だからです。

例:改札の中に入る。ロッカーの中に入れる。

そして逆に、「出る」「出す」という動詞が続くのであれば、「外に」という言葉や概念を伴うのが通常だからです。

例:改札の外に出る。ロッカーの外に出す。

当然のことですが、「中ー外」「入ー出」は正反対の概念です。そのため、通常は結び付かないハズの単語の連結である「中に・出す」という言葉に対して、なんか変だなと感じたのです。こうして字面だけを見ると、矛盾する言葉のように思えて意味をなさないような気さえしてきます。

言葉の正体

けれども、その言葉があらわす実際の状況を観てみると、意味をなす単語なのだと理解できます。この言葉は、一連の動作の「主体」と「客体」が省略されているために正反対の概念がつながって見えているのだ、と。

もっと詳しく言えば、[客体となるある個体のある器官の「中」に向けて、主体となるある別個体のある別器官内からある液体を「出す」]ということの省略語として使われているだけなのでした。

もしかしたら、この言葉を考え出した人は、次のように思っていたのかもしれない。
「中」と「出」という、本来は真逆の性質である言葉たちが、主体と客体をなくして溶け合い重なることで、新しい言葉を生み出す。この言葉の構成そのものが、「中出し」という言葉の持つメタファーとなり、言葉の受け取り手にその含意を暗黙裡に想起させるに違いない、と。

言葉と文脈

とはいえ、「言葉」にどういう含意を見出すか、その含意をどのように受け取るかは、そのひと次第のところが大きいものです。

あるひとは、夢と理想を見出すかもしれない。
あるひとは、支配欲と無責任を見出すかもしれない。

もちろんそれは、そのひとが置かれた環境にも大きく左右されるものだと思います。最初は上に書いたような違和感を持っていた僕も、いつの間にかそれを忘れて別の文脈の中でこの言葉に対するイメージを持つようになっていました。慣れというのは怖いものです。

関連語として世界的にもこれ以上ないほど有名なひと、旧約聖書『創世記』に登場するオナンにとっては、「中出し」というのは父から強制された行為で、忌避したいものだったようです。そして中出しを避けたために殺されてしまったという話から転じて現在のオナニーという言葉になっている。あらためてそのことを思い返してみると、「中出し」をめぐる今の日本の状況とはかなり違っていて面白いですよね。

角度を変えてみるのが好き

自分の置かれている環境に対する慣れから抜け出して、別の文脈や別の時代に接続してみる。角度を変えてみると、「こうでないといけない・わたしはこうするべきだ・あなたもこうするべきだ」という硬直した考えが少し柔らかくなって、色々なものを楽しめるのではないかなと思います。
*1

なお、この記事は、次の記事を読んで自分の思い入れを思い出したので書かれたものです。

はてなブックマーク - 最後に上原亜衣とSEXしたい 一般男性のドキュメンタリー『青春100キロ』が最高だった
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*1:たしか、昔に読んだ東浩紀さんの本では、「言葉」をわざと別文脈に接続することで元文脈を破綻させる試みを脱構築といい、そのときの言葉の性質(全体での同一性を持たず移り行く様子)を散種(精子を撒き散らすこと)とデリダは呼んでいる、というようなことが書いてあった気がします。なんか関連するなと思ったので書いてみました。詳しいひと、教えてください。

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