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フランス女性と同棲中

ナンパしたフランス人と同棲する高卒ニートの整理と極論

コミュ障の輪を広げたい

言葉 コミュニケーション

僕はコミュ障で、よくコミュニケーション上で「失敗したなー」と思うことがある。そのせいで最近も、色んな人に迷惑をかけてしまった。申し訳ありません。

それで今日は、僕も自称している「コミュ障」という言葉について書いてみる。

コミュ障:コミュニケーションを上手くできない者。コミュニケーション障害とは異なる。
コミュニケーション障害:身体障害や発達障害などでコミュニケーションに障害があること。

1、コミュ障とコミュニケーション障害

*1
「コミュ障」という言葉は、近年になって大きく変化してきた言葉だ。

この言葉は現在、さまざまな原因でコミュニケーションに障害がある(と感じる)者を指すネットスラングとして、その原因には精神疾患に属する重度のものから人見知りなどの軽微なものまでを含んで幅広く使われている。

しかし、これを聞いて違和感を覚える方もいるだろう。

なぜなら、コミュ障という言葉の派生元と考えられる「コミュニケーション障害」という言葉が、重度のものだけを指す言葉だからだ。つまり、そもそものコミュニケーション障害という言葉は、医療福祉の文脈で使われており、発達障害や精神障害や身体障害などを原因としてコミュニケーションに障害がある場合を指しているのだ。

言いかえれば、医療福祉の文脈では、客観的に認定された「障害」を持つ人が直面するコミュニケーションの障害という意味で用いられていた「コミュニケーション障害」が、「コミュ障」と略してネット上で使われ出すと、「人見知り」などの主観的な理由でコミュニケーションが上手くできない者にまで適用範囲が広がったのだ。

では、医療福祉の文脈で用いられる「コミュニケーション障害」と比べて、そこから派生したと思われるネットスラングの「コミュ障」は、なぜこのように広い範囲を指すようになったのだろうか。
もういちどこの疑問を二つのカタチで明確にしておこう。

・「人見知り」でコミュニケーションに問題を感じる程度でも、「障害」という強い語感を含む「コミュ障」という言葉で表現しているが、それはなぜか。
・なぜ、このように違和感がある言葉であるにも関わらず、ネット上での使用例が増えているのか。

障害という強い語感

まず考えられるのは、「障害」という言葉に複数の意味があることだ。
医療福祉の文脈での「コミュニケーション障害」は身体障害・知的障害などと同じようなDisabilityの意味合いで用いられているのに対し、主にインターネット上で散見される「コミュ障」はコンピュータ用語での障害を指すFailureの意味合いで用いられているのかもしれないし、障害物競走などと同じような障碍(妨げになるもの)の意味合いで用いられるようになったのかもしれない。

いずれにせよ、現代の日本では「障害」という同じ漢字を用いて表記するために、使用者がどのような語感を念頭において使っているかが異なるという可能性もある。しかし、ヒトに対して「障害」という言葉を使う際のイメージとして、先行するDisabilityの身体障害・知的障害などのイメージを無視して広まったとはとても考えづらい。やはりDisabilityのイメージを付与したままに言葉の適用範囲が人見知り程度まで広がったと考える方が自然だ。

そこで考えられるのが、コミュニケーション能力の格差の「切実さ」を表現するために「障害」という強い言葉の選択が支持されたのかもしれないということだ。
 → なぜ若者もコミュニケーション能力を重視するのか、まとめ - コウモリの世界の図解
この記事で書いたように、コミュ力は若者を取り巻く様々な格差の主要因であるとみなされており、また拡大しつづける日本の格差の現実(就活自殺・貧困・精神疾患)は、さらに強い言葉の選択を促しても不思議ではないほどだからだ。

「コミュ障」という強い語感の選択は、このような社会状況を念頭に置けば、納得できる面が多いにあるだろう。もちろん、強い語感の選択はそれで納得できるのだとしても、それだけではなぜ広範に広まって使われるようになったかの答えにはならない。そこには、この言葉が使いやすい言葉である他の理由もあるだろう。 

広範囲への拡大

コミュ障という言葉の実際の使用例では、「俺のようなコミュ障が…」などと自虐的な文脈の中で用いられることが多く、これは自分を貶める日本的な謙譲表現である「弱輩」「若輩」「未熟」「拙者」などの現在的な表現パターンであると言えるかもしれない。

腕力の強弱が重要であれば自らを「弱輩」と言い、年齢の上下が重要であれば自らを「若輩」「未熟」と言い、剣技の巧拙が重要であれば自らを「拙者」と言う。その時代その時代において重要とされる価値観において低位であることを示す表現でもって自らをへりくだるのが日本的な文化である。

現代では「コミュニケーション能力の格差」が重要であるため、自らがその低位に属することを表現してへりくだるために、「コミュ障」という言葉が広範に使われるようになったのかもしれない。かつて、武士が自分のことを「拙者」と言うようになったように、もしかすると、そのうち大半の日本人が自分のことを「コミュ障」と称するようになり、「コミュ障の私ですが、乾杯の音頭をとらせていただきます」「私のようなコミュ障がお二人の結婚にあたっての祝辞を申し上げるというのも恐縮ですが、少しだけお話しさせていただきます」などと言うようになるかもしれない。「口下手ですが、、、」のような軽いノリで。

更に、自らをあらかじめ「俺はコミュ障なんだけど…」と断っておくことで、相手の過度な期待を避けることができ、またコミュニケーションが上手くいかなかったときの自他への弁解ともなりうる。

これらの理由が複合的に作用した結果として、「コミュ障」という言葉は「ただの人見知り」程度まで広範に使用されるようになり、また現在もその適用範囲は拡大中であるといえるだろう。

コミュ障とKY

また「コミュ障」という言葉は2010年代に入ってから使われ始めた言葉であるが、これは2000年代に流行した「KY(空気が読めない奴)」という言葉の姉弟であるとも言える。

いずれも「コミュニケーション能力が低い」ことを示す意味では同じような言葉であるが、KYが女子校生を中心としてケータイ・ストリート空間で広まったのに対して、「コミュ障」は俺という男性(的)一人称を伴ってネット空間の中で広まっている点が異なるだろう。また、KYが「空気読め!」と他者への非難・嘲りの文脈で使われてきたのに対し、コミュ障が自己卑下の文脈で使われている点も大きな相違点だ。

KYという語は、流行の後すぐに死語となった。これは、他者への罵倒語として使われた文脈から、相手に自らの意図を汲み従うことを要求するという自己中心的なイメージがついて回るようになったからだろう。つまり「イメージの悪い言葉」だったのだ。また、仲間内だけで分かる隠語としてアルファベット略語の形をとって形成されたために「意味との関連が少なく」長期使用に耐えづらいということも死語になった理由だろう。

コミュ障という言葉がどうなっていくのか、2013年現在ではまだ分からない。

僕としては、コミュ障は自己卑下の文脈で使えるという理由から「一般化して使われる」可能性が30%、それでも障害という強い語感への反発から「死語になる」可能性が30%(非コミュが廃れてきたように)、たとえばコミュ下手など「似た言葉に変化する」可能性が40%くらいだと予想している。
 参考:「非コミュ」と「コミュ障」 - ARTIFACT@ハテナ系
 参考:「コミュ障」と「池沼」 - クリックお願いします!

障害を理解することへの障壁を下げたい

ただ僕は個人的に、「障害」と「健常」という二項対立を減らしたい。そうして「障害」という言葉への抵抗を減らし、すべての人間がある程度の障害を持っているのだ、というグラデーション的な理解を広めたいと思っている。あるいは、スペクトラムとして理解する視座を広めたい、と言っても良いのかもしれない。

だから、そこには様々な弊害もあるのだけれど、僕は「コミュ障」という言葉を広めていきたい。

*1:以下、近年の日本では障害者を障がい者と表記するように変化してきたことを反映せずに表記

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